葉真中顕『家族』
葉真中顕の『家族』を読んだ。
読みながら、胃の少し上あたり、みぞおちの奥がキュッと縮むような感覚と、鈍い低周波のような不快なバイブレーションが胸郭いっぱいに広がりつづけた。物語が投げつけてくるのは感情というより、粘度のある“体感”だった。
読後感は「考えさせられた」よりも「侵食された」に近い。
角田美代子は特異点か、それとも濃縮標本か
物語が喚起する現実の影は尼崎事件の中心人物、角田美代子だ。
連れ込んだ「家族」を内部で分断し、当事者同士を争わせ、時には殺し合わせることで、支配体系を自らの手で強化し続けた。
得ていたものは何か。
権力
承認
そしておそらく
「自分が存在しているという実感」
支配それ自体は目的ではなく手段だったのだと思う。
人を操ることで「自分が中心にある世界」を確信するための。
彼女は異常か? そうだ。極端だ。
だが同時に──
「小さな角田美代子」は、日々の社会のそこかしこに潜んでいる。
家族、職場、コミュニティ、そして自己の中に
目に見えない派閥をつくり人間関係を把握したがる人
直接手を下さず対立を生ませ、関係をコントロールする人
“仲間”“絆”の言葉で囲い込みをつくる人
誰と誰が繋がるべきかを勝手に設定する人
争いを止めず、観察し、時に暗い栄養源にしている人
それは企業にも、サークルにも、SNSにも、そして「家族」にすら現れる。(政治の世界なんか見てるとまさにそんな感じだよね。)
角田美代子は異常なモンスターというよりも、人間関係操作の原理を極限まで進化させた標本だったのではないか。
そしてさらに恐ろしいのは──
「自分の中にもその芽はあるのではないか?」
という問いが自然と浮かんでしまうことだ。
他者を結びつけること。集団をつくること。影響力を行使すること。
これらは単なる異常心理ではなく、私たちの遺伝子に組み込まれた生存戦略でもある。
つながることは、生き残るための戦略であり、幸福の保証ではない
人間にとって「つながること」は生存のためのOSだ。
協力
共有
共同体
所属
これらは長い進化の過程で生き延びるために報酬系へ組み込まれた。
しかしそれと同時に、集団は最も便利な檻にもなる。
多くの人が混同しているが、
つながる能力 ≠ 幸福になる能力
なのだ。
群れをつくることはできても、群れの中で幸せになれるかはまた別の設計である。
人をまとめる才能は、愛とは限らない。
結束は時に呪いになる。
『家族』はホラーではなく人間モデルの解体図
葉真中顕が描いたのは、異常者の話ではない。
システムとしての家族・集団・依存・支配の設計図だ。
ホラーは怪物が外から来る物語だが、
この作品が怖いのは 怪物が外部ではなくシステムそのものとして存在すること。
そして更に怖いのは、読者が途中で気づくことだ。
自分は「被害者」側の席にいるつもりで読み始めたのに、
いつの間にか「支配」と「依存」の両方に座れる人間であることを思い知らされる。
あの、みぞおちのバイブレーションは、
恐怖ではなく、共鳴だったのかもしれない。
自分は誰かの檻のなかにいるのではないか
誰かを自分の檻に置こうとしていないか
つながりは「生存のため」か「幸福のため」か
そして、その違いを自覚できているか
この作品が不快なのは、答えを与えないからではない。
「自分自身が答えの一部かもしれない」と気づかせるからだ。
葉真中顕『家族』

